介護士

高齢者が理想の終末期を迎えるために。その優しさは誰のためですか?

2020年1月26日

愛犬が嘔吐と下痢を繰り返し、どうしていいかわからず、病院へ連れて行きました。

受診結果は胃腸炎で、その後数日で元気にもと通り。そんななか私は、いつか必ず迎える終末期について考えていました。もう長くは生きられない状況で「どうされますか?」と聞かれていたら私はどう答えていただろうと。

きっと、冷静を装いながらも頭の中は真っ白で、何も考えず先生に治療をお願いしたと思います。

しかし家に帰ってよくよく考えてみると、少しでも長く生かせてあげるのが良い飼い主だと、どこかで思い込んでしまっているだけのような気がしてきました。

というのも、介護士として働いていると、「寝たきりになったら延命はしないでほしい。」と言っていたであろう人が、終末期に望まない延命治療を受けていることはよくあって。

なぜそうなってしまうのかというと、介護施設では、延命するかどうかを決めるのは本人ではなく家族だからなんです。延命が必要な状態って本人の意思を確認することがほぼできないので。

たぶん、「延命治療なんて嫌やからな」とかって会話は日常でしていたと思うんです。だけど、

実際に家族がそういう場面に直面したときに、まだしてあげられること(延命治療)があるのを知っていたら、「しなくていいです」とは、罪悪感をいだいて言えないんですよね。九十過ぎていれば大往生だと思えますが、七十代だったら、今の時代だと亡くなるにはまだ早いです。もう少し生きてほしと思って「先生お願いします」と言うのが普通のご家族だと思います。しかしその優しさが、点滴となり、気づけば経管栄養となってしまいます。

相手のためだと思っていた優しさが、ただ自分が悪者になりたくないだけだったなんて考えられませんよね。

わたしの母は、「おばあちゃんに『私が死んだら葬式もやらなくていいし、その辺に遺灰を撒いといてくれたらいいわ』って言われて、そんなことできるわけないって私は泣いて怒ったわ」って話をしたことがありました。

九十歳を超えたあばあちゃんとしては、嫌味とかではなくて、死んだ自分のためにお金を使わせるのが申し訳ないっていうのを伝えたかったと思うんです。

だけど、母はおばあちゃんの気持ちを頭では理解できても、心が受け入れられなかった。

葬式って、故人のためだと心から信じて執り行いますが、本当は現世に残された遺族の気持ちを整理するために行っているのだと、少し考えればわかります。

葬式の場合は、亡くなられているので、家族が納得していればいいんです。しかし、延命治療された人は、そこで終わりません。

延ばされた時間をどのような気持ちで過ごせるのかをよく考えないといけない。

寝たきりになっても、人に声を掛けられ、触れられ、香りや音を感じられるのを、本人が幸せだと思えるならいいんです。

寝たきりでもいいから、触れられるようにここに居てほしい、目に映っていてほしい、生きていてほしい、という家族の我儘でもいいと思う。

ただ、本人が望んでもいないし、家族の我儘でもないのであれば、それは正しい選択ではないかもしれません。

延命しない終末期を過ごさせてあげるための決断は、自分を傷つけるほうを選ばないと下せないんですよね。

延命治療を希望したあるご家族は、正しい判断だと信じてお願いしたにも関わらず、延命治療で生かされる親の姿を見て、「こんなこと本人は望んでなかった。」と後になって気付きました。

「長く生きられれば幸せ」なのではなく「幸せに長く生きる」ことが、私たちの言う「長生きしたい」という言葉の意味なんですよね。だけど、幸せに・・・長く生きられそうにないと知ると、ついつい、長く生きられる方法を選んでしまいます。それでその場は良い選択をしてあげられたような気になります。

しかし、実際に延命されている高齢者がどんな時間を過ごしているかを知ると、一概に良いことだとは思えなくなるでしょう。そして、施設に入れず入院もさせず自宅で看取るのを悪いことだとも思えなくなります。

家族なんだったらどちらが幸せなのか、本当はわかっているはず。刷り込まれた幸せの定義で判断すると、きっと後悔します。

後悔しないよう、家族のために今できることは、終末期についてよく話し合い具体的に決めておくこと。

自分の終末期のためにできることは、最期の十年を使ってしたいことを今からはじめてしまうこと。

今から過ごす十年間は、人間には取り返せる時間かもしれませんが、犬には二度と取り返せない時間。

 

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